みてきたことやきいたこと

私が「見て、聞いて、体験したこと」 私が私を満たすための自己満足なブログ 喜びも悲しみも不安も期待も わたしのことばのエネルギー 「思いをつなぐ、思いを届ける」

誘われないのは寂しい?

良く飲みに行く職場


私より長くいる子も、私より少し後に入社した子も


よく誘われているらしい。


私は、誘われない。

その子たちと一緒にいれば、さすがに一緒にどう?とは言われるが


今日、飲み会あるよ、おいでよ。

というのを

わたしだけ知らなかったりする。


既婚者だから、気を使われているのか

誘ってもつまらないと思われているのか


いろいろ想像してしまう。


誘われて、いけない時は断るのと

誘われもしないのでは

やはり心の中に入ってくるものは違うよなぁ…


可愛さがたりないかしら?

ユーモアがたりないかしら?


わたしって、つまらないやつなのかしら?


けっこう

寂しいもんですわ。


わたしを誘わないなら、バレないように誘ってほしいし

うまくやってほしーよなぁーと思います。

砂糖抜きの生クリームは、砂糖入りの生クリームぬ負けないほど美味しかった

砂糖の入っていない生クリームは

想像以上に甘くて美味しかった!!!


乳製品が…とか

乳糖が…とか


あれやこれやと言い出したらキリがないので


今は


砂糖が入ったお菓子を食べない

ことに集中しています。



砂糖抜きの生クリームたっぷりのせて食べた

砂糖抜きのコーヒーゼリー

とても美味しかったのです。


それが、わたしの中の真実なのです☆

常識とはなんであるか

常識、非常識って

議論になるけど


そもそも常識とはなんであるのか?

常識は普遍的なものではなく

環境や、母体となる社会的団体の構成員の思考や嗜好により大なり小なり違いが生まれる。


同じ時代を生きていても

持ち得る常識には、違いがうまれるものだ。


冷静になれば

それこそ当たり前のことを言っているのだけど


いざ、自分からしたら『常識外れ』なことに直面すると

なぜか腹をたてたり、傷ついたり、

あれこれ考えたりしてしまう。


そして、相手に自分の常識の枠に収まることを求めてしまう。


相手からしたら、自分の方が

非常識にあたっているかもしれないのに。


常識というよりは

こうあるべき、こうするべき

という、習慣の方が働いているのかもしれない


『飲み会ではサラダをとりわけるべき』

『相手の話は目を見て聞くべき』

『女性は…』

『男性は…』

『夫婦は…』


自分の中に染み付いた嗜好、慣習で物事の良し悪しや、正しいとか間違っているとかを判断してしまうことは

あまりに自然なことで


自分がどういう基準で物事を見ていて、ジャッジしているのかすら

忘れてしまうというか

考えてもいないのだ


おそろしいなぁ


最近わたしは

自分の常識とか選択の基準に疑問をもっている


どうしても、正しいことを探してしまって

それは、自分の正しいではなく

一般的に間違っていると言われないこと、

会社で浮かないこと、という意味で間違わないように選択することが


本当に正しいのだろうか?


常識という概念は、そもそも必要なのか…?


そんなことを考える土曜日の夜

楽をしたがる自分を動かす

ただひたすら目の前のことをやっていくことは

『やることがある』

という、充足感と

『ただやるだけ』

という、無力感とが、度々同時にやってくる。


今日もまた

会社で仕事をしただけだった

という日常にしてしまうのは


目の前に

『仕事』とい

『やること』があって

自分に充足感を与えているからなのか?

と、

これもまた度々自問自答していることなのだけど


やることをやっているだけで満たされるほど

わたしの満足の器は小さくなってしまったのだろうか。


本当は満たされていないのに

満たされたように都合よく見ているだけなのだろうか?


楽したがるんだよ。わたしはいつも。

楽をしたがる自分を動かせば

今まで味わったことのない

充足感が待っているかも…しれないぞ…


夢想してみる

仕事帰りの夜なのでした。

お菓子断ちを始めてみる-5日目 〜職場でヒマになった時

社内にいる事務的な仕事をしていると


ふいにヒマになる時がある。



今の職場は、ネットサーフィンもまあできるし

スマホを触っていても何も言われない。

自重しながら、デスクで暇つぶしをしているのだけど


お菓子断ちを決める前は

ヒマになると、暇つぶしにお菓子食べていたなぁと、シミジミ感じる。


手持ち無沙汰感の解消に、

お菓子は大いに役立っていたようだ…


手持ち無沙汰でお菓子って…

なんか、ほかに自分のためになることしようと思った。


エクセルとかの復習とか

効率あがるファイルにアップデートするとか。


継続的に、ヒマな時間があるわけではないけれど

そういう息抜きにシフトしていこう。


あと

お菓子断ち=甘いもの断ち

という設定にしているので


塩煎餅は、今のところ許容していて。


そうすると、塩煎餅が止まらなくなる…

ので、気をつけようと思う、水曜の夜なのでした。


お菓子断ちしてるんだけど

眠いんだよね〜

お菓子断ちを始めてみる-4日目〜職場でお菓子断ち

お菓子断ち3日目。


今日はバタバタと業務をこなしていたこともあって、お菓子にでを出さずに過ごせた。


連休明けの、お土産お菓子の誘惑もあったけど


思っていたより、『食べたいーー!!』とならなかったな。


会社にいると

お土産や差し入れで、食べ物をもらうことが多い。

甘いものはもちろん、ご飯系のおにぎりとかお惣菜的なものも。


頂けることは、ありがたいんだけど

やっぱり

『断ったら申し訳ない』っていうのと

『断ったらなんかもったいない』っていう意識がすごく働いたしまったいるように思う。


申し訳ない=親切を受け取らない無粋なやつと思われたくない(思い込み)


もったいない=タダなのだから(損得)


とても美味しそうで、初めて頂くものと、

もったいないからで頂く時のテンションは

言わずもがな…



いろいろ頂ける環境だからこそ

お菓子断ちは、自分の意志との勝負…


お米や芋類をはじめとする、糖質を含んだ食材や、外食する時の調理に使われているであろう砂糖は

今のところは許容しているから

まだそんなに苦しくはない砂糖断ち。


主に断つのは、わたしが大好きで

わたしのストラスを解き放ち続けてくれた、甘い甘いお菓子たち…


なぜ食べたいのか

本当に食べたいのか

自問自答をしていったら

お菓子断ちも苦しくないのかな〜

どうかな〜


日々の自己観察がちょっと楽しみだ

最善の選択をしなければならないと、思っていたとに今さらながら気が付いた

ここ何年か、新しい場所に行くことや、新しい関係の構築に

ひどく消極的だった。

新しい関わりを、積極的に避けてきていた。

 

自分の時間を持ちたいという思いを強く感じていたのも確かだけど

「新しいことがめんどうくさい」とか

「私なんてつまらない人間ですからね、何を話題にしていいのやら」とか

逃げの姿勢での、

現状維持、凪の日常を選択し続きてきた。

 

そうすると、結果

日常は穏やかだし、変わらない日々だし

たぶん「平和な」人生なんだと思う。

「こ

でも、そんな日々を選んでるのは自分なのに

心は穏やかでもなくて

心から、日常を楽しめていなくて

 

「本当に、この変わらない日々でいいのか?」と

自問自答が始まって

じゃあ、この日常を変えるとしたら?

というところで、

新しい世界へ飛び込むこと、新しい関係を築くことに躊躇している。

 

ほんとに、私の人生この繰り返し!!!

 

「こうしたい!!」って肚から決められないんだよね。

いつも、逃げ場を残す選択や決定をしている。

 

「しかたなかったとか」

「こっちだって悪くはないとか」

 

そういうのが嫌になって、

「選択するくらいなら、何も選ばない。現状維持」の姿勢が

楽になってしまったんじゃないかな・・・

 

 

それでも、変化に憧れて、劇的に夢を見てしまうことを辞められず

また、自己嫌悪というか、自己否定。

 

新しいことだけが全てではないし

今あるものを育てることももちろん大切だと思っているけど

その、育てたいものも、変わらない時間、変わらない思考、変わらない体験の中では

育っていかないんだよねぇ・・・

 

「新しさ」は最先端ではなくて

自分の経験にないもの、関わりがなかったもの、諦めてきたものの中に

たくさんあるんだよね。

 

こうしてつらつらと脈絡なく書いていることも

結局「今までと変わらないもの」で

「あぁ、またこんなこと書いてるわ」っていうことなんだと

今、すごく自覚している・・・

 

このループ

私は、本当に断ち切りたいと思っているのか?

断ち切ってどうしたいのか?

大切なのって、ビジョンを描くことなのだろうか?

何でもいいから、決める事なのだろうか?

 

こういうのも

今までの自分にはない思考の回路が出来た時に

進んでいけるものなのだろうか?

 

そのためには、その「今までの自分にはない思考を手に入れるための新しい環境」

を自分に準備することが必要・・・というわけか。

 

変化を求めないものに、変化など訪れない。

 

新しい環境、新しい関係を

求めてみたって、迷惑かかるわけでもないし

迷惑なんて、人それぞれの価値観で変わるものだし・・・

 

むしろ、自分には迷惑なことではないし・・・

 

と、独り言の自問自答を繰り返して

私は、どこに降り立つことができるのか?

 

 

いま、私は新しい環境と新しい関係を確かに求めているのだから

そのチャンスがあるのなら

手を出してみたらいいだけなんだけどね。

 

その、全てのチャンスが

自分にとって「最善」である必要なんてないんだ・・・

 

あぁ、そうか

私は、常に「最善」を選択しなければならないと思っていたのかな。

「間違ってはいけない」「損をしてはいけない」

「遠回りになってはいけない」「けがをしてはいけない」

そんな基準があって

それを避けるためには、「最善の選択をするしかない」

「最善の選択をするためには、選択肢は多くなければいけない」

「今、目の前のものだけでは、最善の選択ができるとは思えない」

 

「最善の選択ができるまで、待っておこう」

という結果が

 

「何も選ばない、何も変えない、何もしない」

という現状なのではいか・・・

 

 

そうか。

私は「最善」にこだわり続けてきたんだな。

「最善」以外は意味がないとおもってきたのだな・・・

 

うーん・・・

無意識って、おそろしい・・・

 

まぁ、最善を狙いすぎるあまり

勢いで選択してきたことも、多々あるような気もしているが・・・

 

自分の選択基準とか、なんていうか

動くための理由が、最善を選択するためだったと思うと

危うさと、したたかさと、

空しさが漂っている・・・

 

最善を尽くすことと

最善だけを選択したいと思うことは、全く違うからなぁ。

 

うーん。

私って、ほんとびびりだなぁ。